金魚の日本史
金魚が日本に来たのは500年前
金魚が日本にはじめて入ってきたのは、500年前(室町時代の終わり)と言われています。
室町時代末期の文亀2年(1502年)に、金魚第1号が泉州、左海の津(現在の大阪府堺市)に渡来したという説がもっとも有力なようです。その頃は舶来品のすべてがそうであったように、金魚も最初は上流階級だけに許される超ぜいたく品だったそうです。
金魚が身近な存在に
元禄時代(1688年から1709年)になると江戸の町にも金魚屋ができ、裕福な武士や商人たちが競って高価な金魚を買い求めるようになります。ぜいたく禁止令に触れて金魚を没収される人も出てきました。
それが普通の町民たちの間でも金魚が飼われるようになったのは江戸時代も後期の文化、文政年間(1804年~1829年)になってからのことのようです。 この頃になると、露天や町を売り歩く金魚売りが多くなり、一般庶民も広く金魚を楽しめるようになります。またたいへん立派な金魚鉢やガラスの容器も売られるようになり、さらにはアカムシやイトミミズを採取し、金魚の餌として商売をする人も現れてきています。当時の浮世絵や家具類、着物類などにも金魚の絵がよく使われたりしました。またその頃から愛知県の岡崎市の菅生神社周辺では金魚花火が打ち上げられたようです。
江戸時代の金魚ブーム
江戸時代前期の金魚は、富豪や大名などの一部の特権階級の高価な贅沢品の一つでした。「西鶴置土産」(井原西鶴著)の中で「大名の若子が金子五~七両にて金魚を買い求め…」との記述があり、相当の高価なものであったようです。
しかし、江戸時代中期以降、太平の世が訪れ、江戸文化が花開き町に活気が出て来ると、仕事にあふれた武士たちが副業として数も少なく高価であった金魚の養殖を始めたと考えられています。というのも、金魚を愛玩魚として飼っていた大名などが、率先して金魚の養殖を奨励し、家来に命じていたからです。
また、ちょうどオランダ等からガラス(ギアマン)製造技術が輸入され、ビードロ等の吹きガラスが流行し、それが金魚鉢として利用されるようになると、当時のマスコミである浮世絵・浮世草子・川柳等で金魚がたくさん登場しはじめ、江戸の町に一大金魚ブームが沸き起こりました。
このように、養殖技術が確立して生産が可能になり、飼育するための器である金魚鉢が普及し、マスコミが大いに金魚を取り上げた影響で金魚文化が一気に花開いたのです。
大和郡山で金魚養殖が盛んに!
1742年に、柳沢吉里が甲斐の国(今の山梨県)から郡山藩に、入部し郡山城主になり趣味として飼っていた金魚を持参し、邸内で飼育しその飼育を家臣に進めました。
江戸中期以降においては、諸説にあるように郡山藩士の間で趣味としての金魚飼育がかなりおこなわれていたようです。
はじめは、藩士の間で趣味として飼う者が多かったが、幕末の頃ともなると藩財政の窮乏につれ下級武士の間では、これらの趣味が内職として、家計の一助となったといわれています。やがて、領内の農民と組み、仲間人を経てこれを行商に託し諸国に財版するという産業形態が生まれ、郡山金魚の名声を高めていったそうです。行商人が毎年郡山から40人前後も出て、相当な利益を上げました。
やがて、大和郡山の金魚商人が販売基地としていた愛知県弥富町も大きな産地になっていきます。江戸の町にも江戸川流域に大産地ができました。
こうした産地では、新品種を導入しての品種改良にも熱心で、トサキン、ジキン、ナンキンなどはこの時代につくられたといわれています。
明治以降金魚養殖がますます盛んに!
明治時代に入ると金魚の養殖はますます盛んになります。奈良県の大和地方や愛知県の弥富地方、東京の江戸川地方などの産地が次々と新品種をつくりだしました。
明治維新という社会的経済的な大変革の時期を迎え、趣味的な養殖の時代から資本主義社会形成の過程に応じ、「郡山金魚」の名は国内言うまでもなく、海外にまで知られるようになっていくこととなりました。このように日本では郡山が金魚養殖の草分け的な存在でありました。全国一として金魚の町郡山は名声を博すこととなったのです。
戦争でいくつかの種類が失われた今も、日本産金魚は20数種類を数え、欧米などに輸出されています。
大和郡山、愛知県弥富町、東京江戸川は三大産地として世界に知られていますが、最近は江戸川は都市化のため、埼玉県に養殖場が移りつつあります。